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# 『 夏時間の庭 』
こんにちは、蓮です。

先月、9月12日付のブログで、フィンランド映画にかこつけて断捨離の話を少し書きましたが、最近は、自分の暮らす家のみならず、“実家あるいは親の家を如何に片付けさせるか”が少なからぬ関心を集めているのだそうです。核家族化が進み、更に高齢化・少子化が押し寄せる中、見ようによってはガラクタでしかないような大量の物を残して逝かれても困る、正直、生きている内に少しでも物を減らしておいてほしい…という思いが、子供の側にはあるのかもしれません。

夏時間の庭 』という2008年のフランス映画には、子供に何を言われたわけではないけれど、遠くないであろう自分の旅立ちの後、子供達に負担をかけたくないと願う母親が登場します。実際、彼女は間もなく他界してしまうのですが、その後残されたのは広大な庭とアトリエ付きの郊外の家、そして美術品の数々でした。実はこの映画、オルセー美術館が全面協力しており、登場する美術品の多くが本物。公開当時は、美術ファンからも注目を集めました。

そうした歴史的にも貴重な美術品、ガラクタとはわけが違いますが、それはそれで困った問題が発生します。そう、価値ある資産であるが故の莫大な相続税。庭や家にしても、税金はもちろんのこと、維持していく為にはお金も人手もかかります。更に、相続人である3人の子供達には、既にそれぞれの家庭や人生があり、生き方も住む場所もバラバラ。そんな彼らにもうこの家も美術品も必要ないだろうということを見越して、母は生前、自分の死後はそれらを売りに出すよう長男に伝え、遺品整理のための目録まで残していきます。そんな母の思いを知りつつも、長男は当初、遺産を手放さず子供達に残そうと考えるのですが…。

印象的なのが、長年この家に勤めていた家政婦の老女が、遺品整理中の家を訪ねてくるシーンです。部屋に花を絶やさなかった亡き女主人の為に生花を活けつつ、どこか悲しげに家を眺めまわす家政婦。相続人たる子供達よりも長くここに暮らした彼女こそ、誰よりもこの家や調度品に愛着を持ち、その価値を理解しているように見えます。ここでいう“価値”が金銭的価値や歴史的な価値ではないことは、やがて続く場面で明らかにされるのですが、彼女にとってはおそらく、慣れ親しんだ環境への愛着や思い出こそが価値なのでしょう。しかし一方で、相続人でない家政婦には、子供達が相続に伴い抱える苦労や葛藤は関係がありません。同様に、映画を見る観客も部外者だからこそ、「あぁ勿体無い」「こんなに素晴らしいものを手放すなんて」「思い出のある家や庭をよく売りに出せるなぁ」などと勝手なことを思えるのです。

映画は最終的に、どうするのが良い/正しいといった結論は出しません。しかし、父が急死した際、この手の問題で物理的にも精神的にもかなり大変な思いをした自分としては、当時を思い出して共感するところが少なからずありました。実家の片付けに悩む子供も、旅立つ前に何をどうすべきか考えている親も、何かしら考えさせられる作品だと思います。

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# 『プロミスト・ランド』 弐
こんにちは、蓮です。

先日(9月26日)に引き続き、映画『プロミスト・ランド』のお話です。

さて、前回挙げた作品の特色3点のうち2点目、その?「“企業が相手を丸め込むやり口”というのがつぶさにわかる。」については、前回紹介した「ターゲットに同化して心を開かせる」方法以外にも、様々なテクニックが披露されます。

傍から見ていると「なんでそんな簡単に信用してしまうのだろう」と思うかもしれませんが、ニュースで見聞きする詐欺事件と同じで、当事者になると冷静な判断ができなくなるのかもしれません。映画では、そうした判断力を奪われた、あるいは寧ろ心のどこかで「信じよう」「信じたい」と願ってしまっているのかもしれない、コミュニティの人々が抱える事情も浮き彫りになります。(この点に関しては、もしも2、3年前に公開されていたら、日本でも今より遥かに話題になっただろうと思います。)

シェールガスの採掘が自然環境や住環境に問題を引き起こしているのは事実ですが、作り手が描きたかったのはそのことよりも、シェールガスに限らず、企業は往々にしてこうした手を使うものだということと、何より、人は自分の信じていたことが覆されそうになった時どうすべきなのか、ということのようです。

主人公は、大仕事を任されたことで、昇進という社会的・経済的見返りを受けるのですが、彼はそれだけを目的に仕事をしているわけではなく、それは自らの経験に根差した信念に基づく行動でもあります。しかし、その思いが覆されそうになった時、果たして彼はどうするのか。そして、その「どうするのか」が、特色?の非常にアメリカらしい、いや、昔ながらのアメリカ映画らしい映画だな、と感じる所以なのですが、この結末は賛否が分かれるところだと思います。

また、その結末に至るまでの主人公の心の動きが見えにくい−そこには相当な葛藤や逡巡があって然るべきだと思うのですが、それがあまり伝わってこないことは、他の点が繊細に描かれているだけに、この映画の一番の欠点であるような気がします。しかし、全体の出来としては非常に良い作品だと思うので、“お堅そうな社会派映画”と敬遠されることなく、多くの人に見て貰えることを願います。

なお、タイトルの「プロミスト・ランド」(原題も同じくPromised Land)は、元々は聖書に由来する言葉で、神がアブラハムの子孫に与えることを約束した土地のことを指していますが、やがて信教の自由や土地の所有を求める移民たちにとって、新天地アメリカを指す言葉ともなりました。それを踏まえて見てみると、この映画の“アメリカ映画らしさ”が尚更伝わってくるかもしれません。

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# 『プロミスト・ランド』
こんにちは、蓮です。

先日、映画『プロミスト・ランド』を見てきました。ガス・ヴァン・サント監督、マット・デイモン脚本・主演という『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』や『GERRY』を生み出したコンビの新作です。新作と言っても、日本公開が本国に比べ1年半以上遅れているので、実際には2012年の作品。上映館も、都内はとりあえず2館でのスタートと限定的で、主演俳優と監督のネームバリューからするとちょっと不思議なくらいですが、考えてみればガス・ヴァン・サント作品には、これまでもそれほど大きな規模のものはなくて、どちらかと言うとart-house film(日本で言う「ミニシアター系」的なニュアンス)に近く、寧ろその割には監督の知名度が例外的にメジャー級ということなのかもしれません。上映館が少ないこともあるのでしょうが、私が訪れた時は、平日夜の客席はかなり盛況でした。

作品の特色を端的に振り返ると、
? 映画をよくわかった脚本家と監督の仕事である。
? “企業が相手を丸め込むやり口”というのがつぶさにわかる。
? アメリカらしい映画、いや、アメリカ映画らしい映画である。
…といったところでしょうか。

?に関しては、とにかく、映画としての作り方が上手。細かい描写まで計算され尽しており、後からそれにどんな意味があったのかがわかってキレイに腑に落ちるという、観客が心地良く見られる仕掛けが施されています。例えば、なぜ、映画の最初の場面は“水”のカットから始まるのか。主人公はなぜ顔を洗っているのか。この冒頭のシークエンス、大仕事に抜擢された主人公が会社のお偉いさんと食事をするという状況なのですが、その上司が毎度お定まりのつまらないジョークを言うという何気ない設定も、後で意味を持ってきます。

そして主人公の大仕事とは、シェールガスの採掘権を得るため、土地の所有者である一般市民達から契約を取り付けるというもの。相棒と手分けして各家庭を回る彼は、ターゲットの町に到着するとまず、地元の店で車も服も現地調達します。宿泊先も、高級ホテルではなく安そうなモーテル。全ては、契約相手である住民の警戒心を取り除き、彼らと同じような服、同じような車で、親近感や安心感を与えるための作戦です。そうした謂わば嘘で固めた格好の中、主人公は靴だけは買い換えずに、祖父の形見のブーツを履き続けるのですが、それも又、ラストに向けて重要な意味を担うことになります。

そうした細かな描写のみならず物語の展開も上手く、脚本を書いたデイモンと、共に製作・出演・脚本を手掛けたジョン・クラシンスキーの腕を感じることができます。

もっと語りたいところですが、字数が尽きたので、?以降はまた次回に。

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# 物と向き合う。
こんにちは、蓮です。

何年か前に、「断捨離」という言葉が流行りましたよね。“流行った”とまではいかないかもしれませんが、この、音といい字面といい厳めしい印象の言葉、今では殆どの人に通じる気がします。ただ、その意味については、大抵の人は「物をじゃんじゃん捨てること」くらいにしか思っていないようです。しかし、この言葉は元々ヨガの行法(「断行」「捨行」「離行」)に由来しており、単に物を捨てる・片付けるといった整理術に留まらず、どう生きるかについての一つの考え方なのだそう。

逆に、ヨガ発祥の地インドに、「断捨離」に基づいた片付けの法が存在するのかはわかりませんが、物とどう付き合うかについて考えを巡らすことは、現代の消費社会に共通する姿なのかもしれません。

先日、『365日のシンプルライフ』というフィンランド映画を見てきました。監督・脚本・主演を務めた26歳のペトリ・ルーッカイネンが実際に行った、物と向き合う実験を描いた作品です。

実験のルールは4つ。
1.まず、持ち物を全て倉庫に預ける。
2.1日に1つだけ、倉庫から物を取ってくる。
3.この生活を1年間続ける。
4.その1年間は物を新たに買わない。

このルールを聞いただけで面白そう!と思って見たのですが、正直、「ん?これはどうなってるの??」と思う箇所も幾つもあるし、映画としては舌足らずなところもあって、傑作・名作というような大仰な作品ではありません。

でも、“必要な物・好きな物が全て揃った何の不足もない生活をしているのに、なぜ自分は幸せではないのか?”と疑問に思った主人公が、物との付き合い方を一から見つめ直そうと始めたこの試み自体が面白く惹き付けられるのは、自分自身、引っ越しの際に「一人暮らしでどうしてこんなに物が多いのか?」と我ながら驚いたり、部屋を見回して「これホントは全部なんて必要ないんだよなぁ」と思ったりした経験があるからかもしれません。私に限らず、少なからぬ人がそんな風に感じたことがあるのではないでしょうか。

しかし、そう思いつつも、ちょこちょこ整頓をしてみたり、思い切ってある程度ゴミに出して「こんなに片付けた!」と自画自賛するのが関の山。ペトリのように一旦部屋を空っぽにして、本当に必要な物を見極めながら、一つずつ戻していくなんて大胆な作戦に出る人はなかなかいないわけで…だからこそ、そんな彼の行動を追ってみたくなるのでしょう。

だいたい、ペトリがこの実験を始めたのは雪積もる冬のヘルシンキ。にも拘らず、パンツ1枚残さず倉庫に預けてしまった彼は、全裸で部屋を出て、ゴミ捨て場で調達した新聞紙で局部を隠しながら、裸足で雪道を倉庫に向かうのです。挙句、倉庫で最初に持ち帰ることにしたのは、コート1着。数日間、彼は下着も着けずに過ごすことになります。そりゃあ、あの気候では、防寒優先になるも納得ですが…。

普通の人は、たとえ同じ実験を思いついても、おそらく「いや、今は寒すぎて大変だ。春になってから始めよう」と思う筈です。私ならそうします。でも、そういう人間は、きっと春になっても夏になっても何やかやと理由をつけ、結局始めることなく終わるような気がします。ですから私など、ペトリのこの実行力だけでも称賛に値すると思ってしまうのです。

印象的だったのは、彼の「所有は責任であり、物は重荷になる」という言葉。確かに、縁あって手元に置いた物ならば、それを活かしてやることは所有者の責任だし、きちんと愛をもって維持・保管・使用することは、数が増えるほど重荷になります。そしてこれは、物だけでなく、人間関係等、人生の他の局面にも言えることかもしれません。やはり、国を問わず、物にきちんと向き合うということは、断捨離同様、片付けという行為を超えて哲学することへと通じるのですね。

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# 『コリオレイナス』
こんにちは、蓮です。

暫く前に何かの話の折、レイフ・ファインズが出演した英・アルメイダ劇場のシェイクスピア劇『コリオレイナス』について触れたことがあったかと思うのですが、昨夜、京都の劇団「地点」による『コリオレイナス』を見てきました。(別に『コリオレイナス』が殊更好きなわけでも、シェイクスピアリアンなわけでもなく、たまたまです。)

ご存知の方がどの程度いらっしゃるかわかりませんが、地点はかなり実験的な演劇を行っているカンパニーで、そのレパートリーにはチェーホフやアーサー・ミラーといった王道的(?)な戯曲作品もあるものの、近年は、アントナン・アルトーの複数の手紙(『――ところでアルトーさん、』)、あるいは演説や憲法(『CHITENの近現代語』)といった様々なテキストを再構成して作られた作品も多く、その独特な音声/言語/身体意識の元、他にない舞台を作り出す彼らが沙翁の戯曲をやるといっても、一筋縄ではいかないものになるのは明らかなのです。

実験的・前衛的な芝居などというと、とっつきづらいと思われる方も多いかもしれません。一方、古典中の古典、おそらく世界一知られた劇作家であるシェイクスピアの舞台作品も、その由緒正しげなザ・正統派の顔、はたまた教科書を思い出すような堅苦しい印象から、なかなか食指が動かないという向きも。対照的なアプローチとも思える演劇が、あたかも似通った結果を引き寄せかねないこの不思議…。しかし、だからこそ(とはいえないかもしれませんが)、その二つは組み合わせ如何によっては、予想以上の効果を発揮するような気がします。

もちろん、あらゆる類の実験的演劇が、シェイクスピア作品と好相性というわけではないでしょう。しかし今回、地点のシェイクスピアを見て感じたのは、彼らならではの特質が、もしかしたらシェイクスピア作品をとっつき辛くする一因かもしれないポイントをひっくり返しているということです。

特に演劇に慣れていない人にとって、台詞がスラスラ耳に入ってくるかどうかは重要です。映画も同様かもしれませんが、例えば古典作品や時代設定が大昔の作品で、言葉がわかり辛かったり言い回しに馴染みがなかったりすると、台詞がお経と化して眠気を誘いかねません。学生の頃、イギリスでロイヤル・シェイクスピア劇場の舞台を見たのですが、沙翁の時代の英語で上演されていたのでなかなか聞き取れず、芝居の中身が入ってきませんでした。これは言語力の問題ではありますが、たとえ同じ日本語でも、言葉がしっかり自分の中に入ってこないと、舞台全体が漫然と流れて行ってしまうように思います。

地点の芝居はどれもその台詞回しが独特です。端的に言ってしまえば、通常の会話もしくは通常の演劇におけるそれとは全く違う、“ありえない”発話の仕方がされるのです。初めて見る人は特に、非常な違和感を感じるかと思ますが、その違和感故に、台詞に対する聞き手の意識が自然と研ぎ澄まされるのです。言葉の持つ二つの要素、音声と意味の両方が際立って感じられると言ってもいいかもしれません。そのことが、不慣れな人には時に冗漫に聞こえかねない、例えばシェイクスピアのような古典文学の台詞を“聞かせる”ものへと変貌させるのではないか、というのが今回の私の発見でした。

ところでこの作品、元々は2012年に、シェイクスピアの全37作品を37の言語で上演するプロジェクトの一環として制作されたもの。ロンドンのグローブ座で初演の後、更にはロシア・フィンランドでも上演されたそうですが、発話の特異性以前に、そもそも日本語の台詞を解さない海外の観客にどう受け止められたのか、非常に興味の湧くところです。

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# お盆
こんにちは、蓮です。

世間はお盆の真っ只中のようで、テレビでは「帰省ラッシュが…」「交通機関への影響が気になるお天気ですが…」といったニュースが流れています。

このお盆、私は毎年時期がわからなくなって、「…8月のいつだっけ?」となってしまいます。理由の一つは、私がこれまで所謂お盆休みのある仕事をしていたことが殆ど無い、という点にあるのだと思いますが、もう一つ、お盆の時期は地方によってまちまちで、幾つかの時期が混在しているということもあると思うのです。

お盆の行事は、元々、7月15日前後に行われていたそうです。しかし、昔の話ですから、その7月15日というのは当然、旧暦の7月15日です。それを今の暦=新暦に直すとなると、月の運行に基づく旧暦と今の新暦とではズレが生じるので、毎年お盆の日付は変わっていきます。一方、旧暦の7月15日からひと月遅れの8月15日をお盆としているところもあり(おそらく今はこの時期が主流)、つまり、現代の日本では主に、①7月15日のお盆、②旧暦7月15日を新暦に直した毎年日付の変わるお盆、③8月15日のお盆、という3パターンが存在しているのです。

②は毎年日付が変わる不便さもあってか、今もこの方式でお盆の時期が決まる地域は少ないようですが、例えば、沖縄では現在も旧暦に則ってお盆が行われているようです。しかし、③8月15日のお盆を、慣例的に“旧盆”と称する傾向もあって、これが旧暦のお盆とごっちゃになり、そのせいで事態は更にややこしくなっている気がします。

先週末は台風の影響で各地で花火大会が中止になりましたが、現代では華やか・賑やかなイメージの強い花火も元々は鎮魂の意味合いがあり、先祖をお迎え・お送りするお盆の行事と花火は縁の深いものだったそう。(震災後に花火の自粛が見られた時には、そうした花火の由来から、自粛の必要はないとする意見も上がっていました。)

花火を上げることを考えたら、新暦の7月中旬よりも8月の方が、雨の降る確率は低くなるような気がしますが、それでも先週のようなこともあるのですから、お天気ばかりは分かりませんね。そもそも気候自体が昔の日本とは随分変わっていますので、旧来の時期が暦に則りお天気に配慮して決められたものだったとして、それに合わせてお盆の行事や花火をしても、その利を生かせるかどうかは怪しい気がします。ともかくもこの週末は、お天気に恵まれてお盆休みを楽しめる方が少しでも多くなるよう、祈るばかりです。

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# 参加する映画
こんにちは、蓮です。

梅雨が明けたと思ったら、あっという間に8月ですね。

今年上半期、日本の映画界で話題をさらった作品といえば、『アナと雪の女王』であることに、異論のある人はいないでしょう。先日、早くもDVD/Blu-rayが発売になりましたが、一方で上映中の劇場が都内だけで今も25館。1日1回上映の館も多いとはいえ、公開が3月だったわけですから、近年稀に見る異例のロングランです。

この“アナ雪”、GWにはSing Alongつまり「一緒に歌おう」企画として、主題歌であり劇中歌である「Let It Go」が流れる際に歌詞の字幕がスクリーンに表示され、観客が一緒に歌えるという試みが約90館(全国)の映画館で行われたそうです。子供から大人までが立ち上がって、振りまで付けての大合唱が起こった所もあれば、「歌う人が殆どいない」「歌ったら隣の人に静かにしろと怒られた」というように、失敗に終わった所もあるようです。

そもそもこのSing Along、アメリカの映画館で行われて好評だったものを、謂わば輸入する形で日本でもやってみたということなのですが、上映中に声を出すことも憚られる日本ではあまり馴染みのあるスタイルではないだけに、行うなら周到な準備が必要だったのではないでしょうか。(なお、アメリカでも、映画館で上映中に一緒に歌うスタイルが一般的というわけではありません。誤解なきよう。)

例えば、ミュージカル映画の盛んなインドでは、上映中に一緒に歌ったり、手拍子をしたりするのはよくある光景だと聞きます。それを踏まえてか、日本でも2〜3年前から、インド映画上映の際に「マサラシステム」と称して、歌っても踊ってもOK!の回を設ける劇場が出てきました。つまり、アナ雪以前にもそうした試みがあったということですが、比較的コアファンの多いインド映画に比べ、アナ雪は観客の母数の桁が違いますから、浸透させるのも一体感を生み出すのもその分、難しくなる筈です。

私自身は基本的に映画は集中して静かに見たい派で、「上映中に私語をしたり携帯を光らせるような人間は、家でDVDでも見ててくれ!」と思っていますが、このように通常回とは別に、歌もダンスもウェルカムのイベント的な回が設定されるのは、とても楽しくて良い企画だと思います。近年、コンサートやスポーツのライブ・ビューイングが一般化したこともあって、会場が一体となって盛り上がるような楽しみ方を映画に求める人達が増えても不思議はないですし、実際、そういう鑑賞の仕方が似合う作品というのもあるものです。

日本でこうした参加型映画の草分け的存在となったのが、おそらく70年代のイギリス映画『ロッキー・ホラー・ショー』でしょう。これも、アナ雪同様、アメリカで行われていた観客参加型のスタイルが日本にも持ち込まれた形ですが、違うのは、配給会社や映画館の発信ではなく、ニューヨークの観客達が自発的に、映画に合わせて踊ったり掛け声をかけたり、コスプレをしたりといったパフォーマンスを始めたという点です。(一説には、映画があまりにつまらなかったため、観客が自分達で楽しみを作り出したとも言われますが、真偽のほどは はてさて。)

実は、私はこの作品のパフォーマンス付き上映に、運営側として携わっていたことがあります。当時、日本にもLIP’Sという『ロッキー・ホラー・ショー』のファンクラブが存在していることを知ったのですが、言ってみれば“玄人”のファンである彼らの先導があるのと無いのとでは、観客(特に初体験のお客さん)の入り易さが全然違うように思いました。今後も、Sing Alongやマサラシステムのような企画は行われていくでしょうが、「歌詞の字幕を付ける」というような物理的側面だけでなく、事前の周知徹底やいかに盛り上がりをリードしていくかといった運営の仕方こそが、成否を分けることになると思います。

続き▽
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# W杯会場で垣間見えた“文化の違い”?
こんにちは、蓮です。

スポーツに全く疎い私、ルールがちゃんとわかるのはサッカーとバスケくらいです。しかし、そのサッカーも、これまでまともにワールドカップの中継を見たことがありませんでした。それが今年、どういう風の吹き回しか自分でもわかりませんが、グループリーグのスタートと同時にテレビ観戦を始め、全試合ではないものの結構な数を見ています。見始めるとやはり面白いもので、やめられなくなりますね。以前スペインを旅した際は、ふと思い立ってバルセロナで試合を見に行ったこともあるくらいなので、元々、好きは好きなのだと思います。

さて、日本代表の初戦の後だったでしょうか。現地で観戦していた日本のサポーターがスタジアムのゴミ拾いを行った、という件が話題になりました。正確に言うと、日本では、「そのことが各国のメディアで話題になっている」ということが話題になっていたわけですが、その後、「海外では、清掃を生業とする人達の仕事を奪うことになる場合もあるので、一概に褒められたものではない」という意見も出ていたようです。

確か妹尾河童さんの旅行記だった気がしますが(うろ覚え)、インドだか何処かの国で同じように、何かを片付けようとして「それを仕事にしている人がいるのだから、その仕事を奪ってはいけない」とたしなめられた、という話を読んだ記憶があります。日本では、何処かをキレイにして叱られたという話はあまり聞きませんから、これも一種の文化的・社会的相違なのかもしれません。

ただ、今回のスタジアムでのゴミ拾いに関しては、たとえゴミが片付いても清掃自体はどのみち必要なのだから、仕事を奪うことにはならないのでは?と思いましたが、どうなのでしょう。ゴミが無ければ、その分人数が要らない…とリストラが発生したりするのでしょうか。それとも、「ゴミを拾う人」「モップやクリーナーをかける人」のように、担当が細分化されているケースもあるのでしょうか。

スポーツでの事情はわかりませんが、日本では、ライブ会場で終演後、ゴミ拾いをして帰るお客さんを見かけることがあります。会場をキレイにして帰ろうという気持ちと行動は素晴らしいと思います。しかし本来、自分が出したゴミをきちんと持ち帰るという当然の行為を一人一人ができてさえいれば、誰かが人の分まで片付ける必要もないわけです。今回のW杯での話題も、そのボランティア行為の是非を問う以前に、そもそもなぜゴミ拾いの必要が生じたのか、そこを考えた方がいい気がするのですが…。「海外に行くと日本に比べて街中のゴミが多い」などと言う人もいますが、私の経験からすると、国を問わず、ちゃんとした人は自分のゴミをポイ捨てしたり、そのまま放って帰ったりはしないものです。

続き▽
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# 『こども展』
こんにちは、蓮です。

日本に今どれくらいの美術館が存在して、年間どれくらいの企画展が行われているのか、数えたことがないのでわかりませんが、東京だけでも相当数にのぼるのは間違いないでしょう。企画展の切り口は色々です。パッと思い浮かぶものといえば、特定の作家を取り上げる回顧展・個展的なもの(現在開催中のものでは『デュフィ展』『ルドルフ・シュタイナー展』など)、一つの流派にフォーカスしたもの(同じく『オランダ・ハーグ派展』など)、特定の国や時代、或いはある美術館の一コレクションに絞ったものなどでしょうか。

しかし、それらから離れて自由にテーマを設定した展覧会こそ、ある意味、学芸員ら企画者の腕の見せ所でもあり、また、時に時代や流派を超えて作品が集められるだけに、比較しながら鑑賞する面白さがあったりもします。山種美術館で開催中の『クールな男とおしゃれな女』は、浮世絵から現代の洋画・日本画までを、日本男女の装いに着目して紹介するものですが、これもそうした企画展の一例と言えるでしょう。

先日、六本木の森アーツセンターギャラリーで開催中の『こども展』に行ってきました。これも、「こども」という切り口で、時代や流派を超えて様々な絵画作品を集めた展覧会です。「印象派」「ポスト印象派とナビ派」のように、流派別に構成されたセクションもあるのですが、中には全く違うタイプの作品が隣り合わせに並んでいる所もあり、そうすると、主題が同じなだけに尚のこと各々の特徴が際立って見えてきて、興味深いものでした。

一例を挙げれば、ギョーム・デュビュッフの『ポーシャン伯爵夫人とその子どもたち』は、端正な筆致で、ある種の理想化された家族像を、衣服のひだ一つ一つまで写実的且つ美しく再現しようとしている1895年の作品ですが、そのすぐ傍に架けられたモーリス・ドニの『夕方に塔の傍らで』は、30年の歳月を経て全く違った様式の絵画が登場していることを、まざまざと示していました。

学生時代、ナビ派の理論的支柱とも言える彼の、「絵画とは、軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に、本質的にある一定の秩序で集められた色彩によって覆われた平坦な表面」なのだという文章を読んだ際には、当然と言えば当然の“絵画の一つの本質”を鋭く直截に言い当てたその言葉に感銘を受けたものです。そんな彼の作品ですから、デュビュッフと同じように家族像を描いてはいても、そこではもはや人物の顔と衣服と背景の質感に殆ど差は無く、また、デュビュッフの家族像が如何にも肖像画然としているのに対し、ドニの方はある風景の中に見える家族の姿−言ってみれば、ポートレート写真とスナップ写真くらいの違いがあるのです。

他にも、全セクションを通してみると、19世紀初頭のアカデミックな作品から、印象派やフォーヴィズム、キュビズムを経て、アール・デコ、エコール・ド・パリなどの20世紀具象絵画に至る様子が、「こども」という一つの画題を通じて浮かび上がり、絵画史に馴染みのない方でも、なんとなくその変遷やそれぞれの特徴を掴みやすいのではないかと思います。

なお、六本木での開催は6月29日(日)までの同展ですが、その後、大阪市立美術館に巡回するそうです。

続き▽
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# 『それでも夜は明ける』
こんにちは、蓮です。

見たい、見たいと思っていた作品をようやく見てきました。『それでも夜は明ける』−今年のアカデミー賞で、作品賞はじめ主要3部門で受賞を果たしたので、ご存知の方も多いかと思いますが、今日はそのお話を。

前回ご紹介した『プリズナーズ』とは全く違った方向性なれど、見ていて思わず目をそむけたくなるようなシーンも多く、非常にシリアスでヘビーな作品であるという点は共通しています。そして、『プリズナーズ』は突然失踪した少女の父親が主人公でしたが、こちらは失踪した側、拉致されて家族と引き裂かれ、奴隷として生きることになる父親を主人公にしています。

奴隷制度が罷り通っていた時代のアメリカが舞台であり、そしてこのストーリー自体が、実際に突然さらわれてその後12年を奴隷として過ごすことになった自由黒人、ソロモン・ノーサップの書いた回想録に基づく実話ということもあって、その衝撃度や各エピソードの過酷さは『プリズナーズ』を遥かに凌駕するものです。

自由黒人という言葉は聞き慣れない方もいるかと思いますが、アメリカで奴隷制度が維持されていた時代にも、奴隷ではない、自由な米国民として認められた黒人が存在していました。原作者ソロモン・ノーサップは、父親が既に自由黒人だったため、生まれながらに自由な市民としての権利を享受していたにも関わらず、拉致という理不尽な事態をきっかけに、突如、奴隷として生きることを強いられたのです。

映画でも、このことが、見る者に「他人事ではない」という感覚を生じさせ、ともすれば“遠い昔の異国の話”のような気がしてしまう出来事を、我が身に引き寄せて実感・共感する手助けをしているように思います。それと同時に、自由黒人という存在を描くことで、同朋が奴隷として生きている社会のアンビバレンスや、拉致といったきっかけではなく、生まれながらに奴隷とされて、12年どころか一生そのまま生きねばならない人々のそれこそ途方もない理不尽な状況に、目を向けさせることにも成功しているのではないでしょうか。

そうした背景があるからこそ、映画のラスト、『それでも夜は明ける』というタイトルが、二重三重の意味で心に重たく響きます。上映中の劇場はだいぶ少なくなっているようですが、ぜひ多くの方に見て頂きたい真摯な作品です。

続き▽
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