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# ウクライナ便り その14
 みなさん、こんにちは。ロシア語担当の Tです。近畿地方が梅雨入りするまであと数週間となりましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
 さて、今日もウクライナ便り(正確に言いますと、すでに日本に帰っているのですから「ウクライナ日記」と呼んだほうが良いかもしれませんが・・・)をお届けします。題して、「ウクライナ人よ、あとひと頑張り!」です。

 そのようなタイトルが少し分かりにくいかもしれませんが、簡単に言いますと今回の一時帰国で、何回か「もう少し考えて改善すれば、これは立派なものになりますよ!」と感じたことをお伝えしたいと思います。

 例えば、お弁当です。ウクライナでの滞在中、西ウクライナのリヴィフという町で二泊して、いろいろ観光してきました。首都のキエフに出発する最後の日、朝7時の電車だったので朝食をとることができなくて、お弁当(ホテルの人は「ランチ・ボックス」と呼んでいました)を用意してもらうことにしました。日本でいう駅弁のようなものを夢見てしまった私も悪かったかもしれませんが、電車の中でお弁当が入っているパッケージを明けたら、バンズづくしのものが出てきて、日本のお弁当が恋しくなって思わず写真を撮ってしまいました。
  中身は、サンドイッチ二種類、菓子パンや全粒粉のパン1個ずつ、ジャムとバター、リンゴ、ペットボトルの水です。ナイフやフォークがついていないので、一体バターやジャムをどのように塗れば良いのか、頭を働かせなければ解決できない問題でした。ホテルの大切なお客様に朝食の代わりにお弁当を持たせるのは、とても良いアイデアのはずです。しかし、900円もするその「お弁当」に、パンが4種類入っているのは、ちょっとした行きすぎのようにも思われます。 

 ちなみに、電車の車掌を務めるおねえさんたちが、車両に入る時と出る時にお辞儀をしていないという事実は、私にとってお弁当の中身と同じほど衝撃的なものでした。日本って礼儀正しい国ですね・・・

 もう一つ「おしい! けど今ひとつ」のものに、食品をラップして新鮮な状態に保つための商品があります。そのウクライナ版のラップを使うとき、なんと、ハサミもしくはナイフで切らなければいけないような構造になっているのです。日本みたいに刃が付いていないために、ウクライナ人主婦がどれほど苦労しているのかを考えますと、心が痛みます。

 さて、今日の「物足りない」話は、この辺にしておきます。皆様も外国に行く時、「物足りない」ものを探してみてはいかがでしょうか? 便利な日本の暮らしに慣れたわれわれなら、すぐに見つかると思います。

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# ウクライナの便り その13
 みなさん、こんにちは。ロシア語担当の T です。大阪府は昨日真夏日となり、全国的に大変暑い5月中旬の火曜日になりましたが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。
 
 さて、今日は京都三大祭りの一つ、葵祭の日です。私は行列が下鴨神社の糺ノ森を通っていくのをどうしても見たいと思い、30分ばかり時がゆっくりと進む 平安時代の雰囲気を醸しだす人・動物・ものを観覧してきました。
 以前にもこのブログでふれたと思いますが(2012年7月18日付)、京都の祭りはとにかく「急がない」ことが流儀だそうです。今日も、先頭の馬たちが烏の鳴き声にビビり少し慌ただしく通過した点を除けば、馬たちに続く女官や武官、牛車などは堂々とした風格で歩を進め、それまで両親が怒るのをずっと無視し観覧席の横で石や葉っぱで遊んでいた3歳ぐらいの女の子でさえ、行列から目を離すことができませんでした。

 「ウクライナのお祭りは?」と聞かれたとしても、私にはあまり詳しく答えることはできませんが、今回一時帰国した際、ちょうど復活祭の翌日に日本に戻ってきましたので、その祭りの行事一式に参加することができました。
 私はそうではありませんが、ウクライナ人の多くは復活祭の40日間前から動物由来の食品を食べないようにしています。肉だけ食べない、あるいは肉・卵・乳製品類全般を食べないなどなど、程度の差こそあれ、大切なお祭りの前に体内から動物関連のものを排除するのはかなり気持ちの良いことかもしれませんね。
 復活祭当日は、母に朝の5時に起こされ、家の近くの教会に行ってきました。私たちが持っていったのは豚肉、染め卵、お菓子類、パスカ(甘いパン)だけですが、人によって酒類(主に糖度高めのワイン)などを持っていく人もいました。そして、徹夜していて眠そうな顔をした牧師が聖水をかけて、イエス様が復活した喜びの気持ちを皆と分かち合っていました。

 ちなみに、復活祭に卵を染める習慣がありますが、一般的な色として定着しているのは、赤や赤系の色です。それは、ある伝説に由来していることです。昔イエス様が復活したのを見たマリア・マグダリナさんは、当時の王様のところにやってきて、その都度報告した時、彼は「イエスが復活したのなら、この卵も赤くなるのだ!」と言ったからとのことです。次の瞬間、机の上においてあったゆで卵が赤色に変わってしまったそうです。

 私も、今回ウクライナにいる間に卵を染めてみましたが、なかなか赤色にはならず、なぜか京都らしいとも言える紫色になってしまいました。

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# ウクライナ便り その12
 みなさん、こんにちは。ロシア語担当の T です。
 先日ウクライナから日本に帰ってきました。ウクライナを出発する時、夏のような暑い天気になって少しつらい思いをしましたが、「涼しい」日本に帰ってきてほっとしています。日本も新緑が大変美しい時期になりましたね。

 さて、今日は私が気づいた現代ウクライナのトレンドについて簡単にふれたいと思います。まず一つ目は、「自転車」です。実は初めて来日した時に自転車があまりにも多くてびっくりしたことがあります(日本における自転車の利用状況については、『自転車王国日本』というタイトルで2010年10月27日および2012年9月12日に2回にわたりふれています)。当時の私にとって自転車というのは基本的に子供が乗るもので、日本みたいに通学・通勤手段、あるいはサイクリングの旅の移動手段としての認識が全然ありませんでした。なぜならば、私は子供の時によく自転車に乗っていましたが、大学に入ってから全然乗らなくなったからです。
 それは、ウクライナでは自転車に心地よく乗れるだけの環境が整っていなかったという理由も大きいと思います。サイクリングロードもなければ、車と同じ道を走る時には無視されいたって危険だからです。大人が自転車に乗るというのは、田舎でしか見られない光景でした。そして、今回ウクライナに帰ってまず驚いたのは、首都のキエフでも自転車に乗っている人が多かったことです。それも、(道が悪いせいかな・・・)皆なぜかマウンテンバイクに乗っていて、「ウクライナ人の自転車に関する意識がだいぶ変ってきているなぁ」と思いました。私も日本ではほぼ毎日自転車を使っていますので、これからもウクライナ人に積極的に自転車に乗ってほしいと思います。マウンテンバイク以外の自転車も流行れば良いですが、その必然的な条件として道路の整備があって、しばらくの間マウンテンバイクが主流であるのは仕方のないことだとも思っています。

 二つ目のトレンドは、子供たちの間でローラースケートおよびキックスクーターが流行っていることです。私の子供のころ、どちらもがすごく人気が高く友達とよく使っていましたが、ここ5−6年ぐらい全然見かけなくなってウクライナの子供たちの余暇の過ごし方を少し心配していましたが、最近はどうもまた流行り始めたらしいです。まぁ、運動するのは良いことですので、これからも子供たちに怪我などせずに頑張ってもらいたいのです。

 今日は先週に続いて乗り物関連のウクライナ便りになりました。今回の一時帰国でまだまだいろいろブログの話題にしたいテーマがありますので、これからしばらくは読者の皆さまに引き続きウクライナ便りをお届けしたいと思います。どうぞ宜しくお願いいたします。

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# ウクライナ便り その11
 みなさん、こんにちは。ロシア語担当のTです。
 日本の東北地方やヨーロッパの多くの地域に寒波が訪れ、大雪になっているところが多いようですが、私が一時帰国しているウクライナは暖かくて穏やかな日が続いています。今年の復活祭が5月5日の子供の日に当たっていて(4月−5月の満月と関連して毎年違う日になります)、その日の最高気温は29度になると予報されています。日本の友達は、「関西では5月とは思えないほど涼しい天気が続いている」という一報をくれましたが、ウクライナだけはなんだか、違う法則に基づいて物事が進められている気がしなくもありません。

 そんなウクライナですが、毎回一時帰国するたびに、大きな車がたくさん道を走っていることが気になって仕方がありません。日本みたいに燃費の良い軽自動車のほうがよほど環境にも財布にも良いではないかと思っているからです。しかし、先日 地元の友達のジープに乗せてもらった時、そんな腑に落ちない思いも少し解消された気がしました。というのも、大きな車が多いのは、道路の状態があまりにもひどくて大きな穴がたくさんあって、それに「対応」できるのはタイヤの大きい車だけだからではないかという結論に至ったのです。 街中はまだ良いですが、ちょっと田舎に行くと道の整備が忘れられて(?)いるところが目立ち、例えばトヨタさんのパッソのような小さいモデルですと、普通の走行さえままならないことを身をもって体感できます。
 一方、そのような最悪の道路状況がもたらすメリットとして考えられるのは、ウクライナ人のドライバーたちの穴を避けて運転する技術がすこぶる高いレベルにまで達していることです。テレビのスポーツチャンネルではたまに、悪い道を走る自動車競技の試合の放送がありますが、ウクライナ人は世界大会でもきっと容易にトップテン入りしてくれる技量を備えているという確信があります。

 また、昨日私が滞在しているアパートの前を、車は車でも、本物の戦車が大きな音を出しながら走っていきました。日本は今GW中ですが、ウクライナでも5月に入ると長い連休があります。5月9日は「勝利の日」とされていて、戦車は、軍事パレードに参加するために常在している映画制作スタジオから駆り出されたものと思います。
 交通機関や車に乗っている人たちが街中を走っている戦車をどんな目で見ていたのかを想像するだけですごく複雑な気持ちになります。そして今、ウクライナは他国と戦争していない平和な国になっているのを大変誇りに思っていることも付け加えて、今日のブログの結びにしたいです。戦車は、映画にだけ使われるものになってほしいです。

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# ウクライナ便り その10
 みなさん、こんにちは。T です。今日のブログでは、またウクライナ便りを再開したいと思います。というのは、先週末から一時帰国中で、この機会にウクライナにいる間に感じたこと・不思議に思ったことについて何回かにわたって書いてみたいと思います。


 首都のキエフの郊外にあるボリスピリ空港に到着してまず思ったのは、「一体いつからこんなにきれいになっているのでしょう・・・」ということです。空港の中は以前はとても汚かったわけでもありませんが、少し狭かったような気がします。それが、去年行われたヨーロッパサッカー選手権(「EURO-2012」)のために新しく整備され、多くの観光客や海外からのお客様が利用できるようになりました。国際ターミナル数も一つから三つに増え、活気あふれるはずなのですが・・・私の利用したトルコ航空の便以外には飛行機の姿がなく、迎えに来てくれた母いわく別の国際ターミナルもがらがらでした。空港を新しく整備するのは良いことではありますが、もっと積極的にお客さんが国を訪れるようにアピールしないと・・・というわけで、このブログの読者の皆様、機会があれば新しくなったキエフの空港を利用してウクライナを訪れてみてはいかがでしょうか?(あまり上手ではない宣伝で申し訳ありません)。

 次に思いついたのは、「国旗改色計画」というものです(ウクライナの国旗については2011年8月24日のフォト日記(23)でもふれています)。ウクライナに着いてすごく印象的だったのは、空の色とそのどこまでも広がる感じです。日本なら、たいていの街が山に囲まれているか山が近くにあって、空の下に必ずと言っても良いくらいどこかに山があって、空と山がセットになっているような気がします。それに対して、ウクライナでは大きな山が西と南のほうにしかなくて、青空の青色がもっとフルスケールで楽しめるような気がします。(私個人的には日本の「空−山コラボ」のパターンが好きですが・・・)
 それで、そのような空の特徴を考えますと、現在のウクライナ国旗の「青色−黄色」(「青空−麦・ひまわり畑コラボ」)のパターンを「全面青」、もしくは「青−白」(「青空−白樺コラボ」)に変えてみる価値があると感じました。政府に提案してみるほどの勇気はありませんが。

 次回もまたウクライナ便りをお届けする予定です。次回もお楽しみに!

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# ウクライナ便り その9
 みなさん、こんにちは。先日引っ越したばかりアパートの目の前にある銭湯を毎日のように満喫している T です。今日はもう少しチェルノブイリツアーの話をしたいと思います。

 私たちのガイドさんは、すごくこだわりが強い方であったことをまず主張しておきたいと思います。私はなにげなく、「ゾーンに来る観光客は・・・?」と彼に聞いた時に、彼は「観光客ではなく、ビジター(訪問者)です!」と直してくれました。そして、自分のことを「ガイド」とか「アテンダント」とかではなく、少しでも訪問者のためになることに務める『案内役』だと教えてくれました。ゾーン自体も特別なところですが、それと関わっている人たちも、特別ですね。

 そんな案内役の方のご協力を得て、私たちはチェルノブイリ市へと向かう・・・ものだと思っていたら、今も150人近い人が暮らしているその長い歴史を持つチェルノブイリ市を通過し、私たちはゴーストタウンと化したプリピャチを目指して、人影もない雪景色の道を走っていきました。
 プリピャチで私たちは、幼稚園、高校、10階建てのホテル、町の一番高い建物であった16階建てのマンションと元遊園地に案内されました。写真に写っている建物の壁には、「レーニンの政党は国民の力です」の文字が書かれています。これは、高校の図書室だった部屋です。1986年5月1日のメイデーにオープン予定だった遊園地の観覧車。雪が膝あたりまで積もっていたので、その中を進むのは歩くだけでも精一杯でした。
 プリピャチの町の中の建物は、26年間も誰も使っていませんので、荒れ果てた地に草木が生い茂る様子を見ると自然の力はすごいなとまず実感させられます。そして、人間はその力に勝てることは無理で、勝てそうに見えてもそれは幻想にすぎないと私は思いました。
 もう一つ疑問に思ったのは、それぞれの建物の中のモノに「事故後、本当に誰も手を触れることはなかったのだろうか」ということです。正直に言いますと、ありのまま過ぎる風景も何カ所かありました。例えば、幼稚園内のベッドでは、ガスマスクを顔につけられた人形がおいてありました。その幼稚園に通っていた子供が、何かの訓練の時にガスマスクを人形の顔にはめ込んだのかもしれません。
 しかしながら、ゾーンを訪れたカメラマンが、「それっぽい」写真を撮るために、そのような光景を作り出していたことを考えても、誰かが手を触れることもありうるのかもしれません。私が言いたいのは、事故後の成り行きで自然にできたものに、人間の手も加えられた可能性は十分に考えられるということです。ただし、それはあくまでも私の推測にすぎず、自然な成り行きと人間の手が加えられたであろうところの境界線が、すごくわかりにくいということも確かです。またチェルノブイリでは財政的な問題があって完全に除染をして町を復興させようという政策がとられなかったそうです、福島とは大違いですね。
 

 プリピャチ訪問の後、私たちは再び車に乗って、チェルノブイリ原発の第4基のある場所へ向かいました。ここでは500メートルより内に入ることは許されません。でも、そこの放射線レベルは、思ったほど高いものではありませんでした。やはり放射線というのは、すごく理解しがたいものだなぁと感じました。原発に近いところでは、そのレベルはそんなに高くないのに対し、原発から3〜4キロも離れた普通の森あるいは畑では、ガイガーカウンターが狂ってしまいそうなほど高い値を示すのは、本当に不思議なことだと思います。

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# ウクライナ便り その8
 皆さん、こんにちは。ロシア語担当の T です。今日は、チェルノブイリツアーの話の続きをしたいと思います。

 先週お話ししたように、同ツアーが最初に訪れたのは消防士たちのモニュメントでした。ところが私たち5人がモニュメントの前で車から降りてガイドの話を聞いていた時、後ろからジープに乗った警察官たちがやってきました。ガイドが丁寧にあいさつをすると、警察官の一人が、「あんたたち、書類を見せなさい!」と言い放ちました。どうやらその人は、30キロの立ち入り禁止区域内で一番偉い警察官だったようです。なのに彼は、部下から私たちがゾーンに入ったことを聞いていなかったそうです。幸い、ガイドさんの如才ない対応のおかげで、その警察官との遭遇は事なきを得ました。
 警察がゾーン内でこんなに警戒しているのには、それなりの理由があります。ガイドさん曰く、ゾーンへの違法侵入者が今もすごく多いとのことです。彼らは、ちゃんとしたガイガーカウンターや地図も持たずに、適当なところからゾーンに侵入しては、住民たちが避難したあとの村に忍び込み、お酒を飲んだり騒いだりいろいろ遊んだりしているらしいです。警察としては大迷惑なので、ゾーンに入るすべての者をすごく厳しく監視しているそうです。

 その後私たちは、その消防士たちのモニュメントからチェルノブイリ市へと向かいました。10分ほど車に乗っていると、ガイドさんは「このへんかなぁ・・・」と運転手さんと確認をとり、車を止めさせ、私たちはまた外に出ました。すると、ガイガーカウンターが「ピーピーピー」となりはじめました。が、それもそのはずです。降りたのは、事故当時に放射能を浴びた車やさまざまな機械などが埋められた森だったのです。アスファルトの路上の数値が、道の脇に近づくと、10倍になります。そして、その脇の雪をガイドさんが少し取ると、その数値がさらに2倍になります。また夏になると雪がないため、道の脇の数値はさらに3倍ほど上がるそうです。その森は「茶色い森」と呼ばれていて、この森の木の葉は事故直後あっと言う間に茶色く変色してしまったということです。

 チェルノブイリという町は、実は1187年に現在の位置に作られた町で、昔からユダヤ人の聖地として知られていました。今も一年に数回、多くのユダヤ人がその町を訪れています。ちなみに、「チェルノブイリ」という名前自体は、この地域によく見られる植物の名前が由来となっています。

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# ウクライナ便り その7
 こんにちは、花粉症と戦っている T です。先週は、事故当時の子供の時の記憶に触れましたが、本日は実際にチェルノブイリツアーに参加したことについて書きます。

 「ツアー」と書きましたが、実は去年の夏ごろからそれは政府によって禁止されていました。理由は、今年の6月に行われるヨーロッパサッカー選手権を前に、外国人が見るウクライナのイメージを悪くしたくないからでした。しかしながら、今年になってまたツアーが可能になって、私は知り合いが務めている旅行会社経由で手配をしてもらいました。参加するのに、ツアー開催日の10日間前までにパスポートのコピーを担当者に提出する必要があります。
 料金は、今回は参加者が少なく、一人200ドル(1万6千円程度)でした。ウクライナの平均給料は、500-600ドルだということを考慮すると、かなりの値段になります。ツアーに参加したいという人が例えば10人集まれば、料金は140−150ドルまで下がります。

 2月のとある日曜日の朝の9時前に私と日本人の友達はキエフの中心部の某ホテルの前に集合しました。まもなく担当者の人が現れ、もう1人の参加者がやってきました。最初彼はアメリカ人だと思いましたが、知らず知らずのうちに私の友達とポーランド語で会話をしはじめ、偶然にもツアー参加者3人ともが東ヨーロッパとなんらかの関係のある人ということが分かりました。
 待ち合わせの時間にホテルの前に現れた担当者が、ツアーの運転手でした。4人が彼の車に乗って、130キロほど離れたチェルノブイリを目指してキエフを後にしました。道はあまり混まなかったのですが、ところどころにまだ雪が残っていて、30キロの立ち入り禁止区域の境にある検問所に到着したのは11時前のことでした。 私たちが提出したパスポートのコピーに基づいて、それぞれのゾーン入場許可書が用意されていて、それを渡されてからゾーンに入りました。その時 ガイドも同じ車に乗って、私たちはチェルノブイリ原発を目指してゾーン内を車で回ることになりました。
 最初に見たのは、事故が起きた時に現場に駆けつけた6人の消防士たちのモニュメントです。6人とも消火活動を終えた後、飛行機でモスクワの病院に運ばれ、放射線病の治療を受けましたが、二、三週間のうちに亡くなったという話です。彼らの死体は、あまりにも放射線のレベルが高かったので、(放射線が漏れないように)亜鉛の棺で埋葬されたそうです。(写真は、その日本人の友達が撮ったものです。)

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# ウクライナ便り その6
 皆さん、こんにちは。ロシア語担当の T です。
 今日は2月29日ですね。4年間に一回しかないこの日に、SWIFTのためにブログを書けるのは大変光栄に思います。この日に生まれた人って誕生日をどのように祝っているのかなぁと思いながら、今日もウクライナの話をしたいと思います。

 先週のブログでウクライナに帰国中の私を訪ねてきた日本人の友達の話をしましたね。実は彼のウクライナ訪問の主な目的は、チェルノブイリを訪れることでした。それで彼の滞在中、日帰りでチェルノブイリツアーに行ってきましたので、これから3回ほどに分けてチェルノブイリの話をします。本題に入る前に、今日は前置きとして事故が起きた時のことについて少しだけ触れておきたいと思います。
 チェルノブイリ原子力発電所の第4基で爆発や火事が起きたのは、1986年4月26日、午前1時23分です。当時のソ連社会は、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)などをスローガンに、「明るい未来」に向けて様々な革新的な政策が取られていました。にもかかわらずチェルノブイリ事故の場合、なぜかグラスノスチどころではありませんでした。
 私は事故当時2歳でしたが、27日も28日も母と一緒に首都のキエフを何もなかったかのようにぶらぶらしていました。しかも5月1日にはキエフの中心部の広場にてメイデーのパレードが行われ、大勢の人が参加していました。ただし、私はその時すでにキエフにいませんでした。
 母や祖母のところにどこからどう情報が入ってきたのか、当時(や今)の私にはよく分かりませんが、4月末から3週間ほど、ウクライナの南にある、「ポチョムキン戦艦」で有名なオデッサという町に居ました。海が近かったので、まぁ、少し早めの休暇だと祖母は解釈していたようです。
 そのあとは、キエフに帰ったらまたすぐにウクライナの東にある町、ハリコフというところに行きました。そこに親戚が住んでいて彼らの家に3か月間ほど滞在させてもらったのです。風向きの関係でこの地方はキエフよりも安全であると考えられていたため大人が配慮してくれたからのことですが、親戚とはいえ2歳の私にとって親元を離れて暮らすのは随分寂しかったのではないでしょうか。
 1991年にウクライナが独立して私は小学生になりました。まもなく「チェルノブイリで被害を受けた子供」としてどこかの国際基金の招待で、イタリア、そしてドイツに同じクラスの人と旅行しました。合わせて2か月間ほどのことでした。(この時のことはすでに2011年3月9日付のブログ『外国へ旅することについて』でも少し触れています。)

 私の人生におけるチェルノブイリ事故の影響は、幸い上に述べたような程度にとどまったのですが、もっと重大な被害を受けた人たちのことを考えると、今でも心が痛みます。

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# ウクライナ便り その5
 こんにちは。T です。「そろそろまた銭湯の話をしたいなぁ・・・」とも思っているのですが、まだまだウクライナの話がたくさん残っているので、今日は「ウクライナ流の節約方法」について書いてみたいと思います。決して毎週銭湯に通う習慣を諦めたのではなく、単に今の時点ではウクライナにいた時の印象が銭湯の印象よりだいぶ新鮮なのです。しかし、ウクライナの話題が尽きましたら、また京都の銭湯に通う楽しさについて書くことになると思います。

 ウクライナ帰国中の とある日、キエフの地下鉄に乗っている時にふと上を見ると、車両の中で雪が降っていました。それは、外の雪が換気システムの通気口から車両の中に入ってきて、乗客に冬の到来を改めて確認させるかのようでした。面白いことに、地下鉄に乗っているウクライナ人は全然その雪のことを気にしていませんでした。
 地下鉄の車両の中に美しく舞う雪を見ていて、私はふと、その車両に暖房も効いていないことに気づきました。車内に入るとそれでも幾分暖かいので、それまで気になりませんでしたが、意外と無ければ無いで何とかなるものです。そこで私の下した結論は次のとおりです:ウクライナの電車の節約方法は世界一簡単です。それは、冬の間、暖房を一切使わないことです。おそらく、夏も冷房が効いていないでしょうね。車両の中に風が入れば良いのです。

 節約に関連して もう一つのエピソードは、ホテルの話です。日本人の友達がキエフに遊びに来ていた時、彼のために家の近くのわりと安いホテルを予約しました。ホテルはちょっとソ連っぽいスタイルの建物でしたが、その友達はソ連時代に興味を持っているので、ちょうど良かったのではないかと思いました。
 ところが、友達がホテルにて宿泊した次の日に、「Tさん、昨日の夜シャワーのお湯がすごくぬるかったんだけど、どうしたのかなぁ」と不思議な顔をしていました。私も疑問に思ったので、その日の夜 彼と一緒にホテルまで行って、受付のお姉さんにその「ぬるいシャワー」のわけを尋ねました。すると彼女に、「夜10時を過ぎると、この辺の家はみんなお湯が出なくなることを知りませんか?」と逆に質問され(と言いますか、文型は疑問文ですが彼女の意図としては「?」のつかない疑問文でしたね)、それから「この人はウクライナ人の顔をしているが本当は日本人なのかもしれない、そんなことも知らないのか?」と言わんばかりの目で見つめられてしまいました。つまり・・・そういうことらしいです。

 その日本人の友達には、「ウクライナでは節約することが最高の美徳とされているのです」と説明しておきました。彼に もっと詳しく話を追求したいという気配がなかったのが、幸いでした。

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